noafaの日記

紆余曲折の人生経験をありのままに綴ります。

共感の効用と巣立ち

20171110

あっという間に一日が過ぎる。

今日はこの日記をブログ配信しようと

思って朝から取り掛かったけれど、

いまいち自分の気持ちが軌道に乗らない。

成功体験のため、成功者を模倣するのは

良い事と言われるので、

真剣にやろうと思うが、

「誰がこの日記を読んで、

共感してくれるだろうか。

一体何のために?」という

ネガティブな気持ちに負けて、

今まで大きな成功を成した感覚がないため、

儚く自分の理想ライフスタイルの

イメージングは消えてしまう。

何故この感覚で終わってしまうのだろうか。

 

 なぜかというと、人は人との関りの中で

生きている事に由来すると思う。

共感という他人の力が欠かせないのだ。

私は、サラリーマン時代は母のように、

旦那が稼いできてくれて、

家で悠々自適の専業主婦をするのが夢だった。

今、収入は父ほどでないにしても

夫が真面目に外で仕事をしてきてくれて、

世間的には専業主婦というポジショニングである。

実際になってみると、

よく母が言っていたことを思い出して、

ああそうなのか、と思うことがたくさんある。

毎日毎日、気分が乗らない時も体調が悪い時も、

無理して会社に行くことが

死ぬほど嫌だった私に

「毎日行くところがあることは良い事よ。」

と母は言っていた。

どうしてそれを覚えていたのか謎ではあるが、

今なら身に染みて

母の言っていたことが理解できる。

それと同時に母の気持ちに共感するのである。

 

どうしてサラリーマン現役時代は、

その母の気持ちに共感が出来なかったのだろうか。

要は、自分の事しか考えていなかった

ということが露呈する。

つまり、人それぞれのステージがあり

学ぶべきテーマが各々違う人間が

寄り合って生きている社会なのだから、

ステージの違う人間が生きるとは大変なのだ。

 

 毎日毎日、何もしなければ

何も始まらない世の中で、

朝昼晩と自動的にお腹がすき、

時に、睡魔などに襲われながら

なんとなく生きていて、

そして他人の芝生が青いのである。

 

私はそのことが頭では理解できているので、

早く、真の意味で腑に落としたい。

 

 慰めに書くとすると、

「わからない」ということは仕方ない事である。

験勉強で体験したが、

参考書などの同じ文章を読んで、

1回で分かる人もいれば、

100回読んでも、理解できない人もいる。

私はちょうど中間層の人間だと思っている。

分かる時はすぐ分かるのに、

分からない時はどうしても分からないのである。

そんな時に無理矢理に問題を解くなどの

実践を行ったりするのが対処法である。

すると、何となく問題は解けるのだが、

真の意味で理解していない。

だから、記憶からすぐに消えるのである。

すなわち、やり続けなければいけない。

これが人生においても存在する

ラットレースのようなものだ。

生きるということが何か分からない、

だから、とりあえず学校に行って、

会社に行って、とりあえず同じように

している人と繋がって、

励まし合いながらやっていく。

それが社会というものだろう。

 

 だから、ネットサーフィンして発見した

大成功した人の言葉は、自分に経験がなく

実際の見聞ではないのでどこか他人事だし、

それを模倣して実践しているような

駆け出しの起業家やコーチングの人の言葉は

どこか自分のネガティブな気持ちに引っかかる。

なんというか、条件付きの信用を「しなければ」

成功しない世の中なんだよ!

と言われている気持ちになる。

 

 だから、私は可能な限り

自分の素直な気持ちを、

あるがままに全てさらけ出したい。

それでいて、

共感してくれる人を広げていきたい。

書いていて気付いたが、

生まれてから結婚するまでの

応援者第一号は両親であったが、

新生活での応援者第一号は

何を隠そう夫であるのだ。

両親は応援者というか、

もはやサークルなどの団体でいう会長?

クラスに昇格だ。

他の人とは次元が違う。

自分を生み出してくれた人。

本当に感謝しているし、恩返しもしたい。

だから、これからは夫と二人で

まずは頑張っていかないと。

「頑張る」という言葉も使いたくないけれど、

ほかに表現する言葉が今のところこれだ!

というものが見つかっていない。